Weekly Matsuoty 2001/09/18
フロー体験
 
 ずいぶん前のことになるが、おにぎり屋のおじいさんで、「飯炊き名人」と呼ばれる人の話を聞いたことがある。飯炊き一筋数十年、そのおじいさんの炊くご飯で握ったおにぎりは最高においしく、そのおにぎり屋には行列ができるほどだ。

 普通の人々にとっては、たかがご飯である。炊飯器のボタンを押せば勝手にできてしまうものだ。

 しかし、最高のご飯を目指して、飯炊き名人はとことんこだわる。仕入れる米の種類、産地、おそらく作っている農家まで知っている。使う水、米の研ぎ方、そして最も難しい炊き方まで、こだわろうと思えばきりがないはずだ。しかも、毎日コンスタントにおいしい米を炊くためには、刻一刻と変化する温度、湿度といった環境変化を把握して、炊き方を微妙に変える必要がある。まさに芸術的なレベルまで「飯炊き」を引き上げている。

 彼が毎日繰り返す「飯炊き」も、はたから見れば単純作業に過ぎない。しかし、飯炊きをやっている間、彼はその作業に集中し、没頭し、忘我の境地にいる。常に最高のごはんを目指して新たな挑戦を繰り返している。

 こんな時、彼は「フロー体験」を経験しているのだろう。「フロー体験」は、「最適体験」とも呼ばれる概念だ。シカゴ大学の心理学者、M・チクセントミハイ氏が、長年にわたる調査から見出したもので、生きることの幸せ、喜びを見出す考え方として理論化されている。

 飯炊き名人もそうだが、「フロー体験」を仕事から得ている人に共通している最も大きな特徴は、「目的が自分の中にある」という点だ。決して、高い収入や地位、名声といった外的な目標を第一に置いて行動していない。自分の能力を試し、伸ばすために様々なチャレンジを自分に課している。だから、「フロー体験」は必ずしも楽な行動とは限らない。美食やセックスのような快楽のための快楽とは、本質的に異なるものである。

 例えば「登山家」もフロー体験を常々得ている人々だ。山登りという単純な作業、しかも頂上に到達するまでのプロセスはつらく厳しい。多くの努力を要する。それでも、彼らは繰り返し山に登る。なぜなら、自分の限界への挑戦、そこから得られるフロー体験が素晴らしいからだ。

 また、イチローが、日本の野球界での最高の地位を捨て、大リーグへの転身を図ったのは、自分の能力をさらに伸ばしたかったからだと言う。さらに、彼が言うには、自分にとって野球は「仕事」ではなくて「趣味」だからそうしたとも。「趣味」という言葉が意味するのは、やはり「自己目的」的な行動であると思う。また、楽しむ対象だから、と考えることもできるだろう。

 自分の今やっている活動において、最高のものを追及する、そのためにあらゆる努力を注ぎ込む。そうすれば「フロー体験」を得ることができる。たとえ肉体的、あるいは精神的にはつらくても、楽しくて仕方がない状態になれる。

 そういえば、延々と続くプログラミングとバグつぶしの数ヶ月を乗り越え、LINUXを完成させたリーナス氏の言葉を思い出す。

「楽しむためには努力しなくっちゃいけないんだよ。」

 さて、冒頭に「飯炊き名人」の話を紹介したことには意図がある。登山家やイチローやリーナス氏は確かに別格の存在である。しかし、飯炊き名人のような人は周囲にもたくさんいる。フロー体験はどんな環境、どんな仕事からも得ることができる。なぜなら、目的を自分の中に持つから。言い換えると、ある仕事により深い意味、より高い価値を与えるのは自分だからだ。

<参考文献>
 「フロー体験 喜びの現象学」
M・チクセントミハイ著、今村浩明訳、世界思想社
 
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